(λx.xx)(λx.xx)

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言葉の意味とは何かそして何であるべきか

はじめに

本稿では、「言葉(記号、情報)の意味とは何か、何であるべきか?」について考察を行う。
考察の主たる動機としては、以下の個人的な疑問について、個人的な納得を与えるためである。

  • 人工知能は言葉や数式の意味を理解をしているのか?
  • 記号(文字、言葉)は存在しているのか?(インクやペンの染みと紙は存在していると言い切って良いが)

これらについて、「意味」がどのように介在してくるかは後で述べるが、これらは「意味」という言葉を適切に運用すれば、個人的には納得のゆく考察が可能なものであり、そのために、「意味」が何者であるか?何であるべきか?の考察を行った。

ちなみに、私(筆者)は、哲学の議論に関する教育を受けたこともなく、本稿も哲学の議論として記したものではない。あくまで個人的な疑問を解消するための考察であり、いちブログであるため、哲学に一石を投じようとする意図があるものではない点はご承知おきたい。(ただし、哲学の議論でこの手の議論がされている印象があるため、本稿の内容が哲学的な議論であるという表現はわかりやすさのため用いる。もし本稿の内容が哲学の領域を踏みにじっていると感じた方がいても、半可通の言葉遊びだとご容赦願いたい。)

結論

先に結論を述べる。
言葉の意味は、当然に物理的存在ではない。言葉の意味とは、言葉自身に場所がありそこに駐在されるものでもなく、
言葉を認識した聞き手が言葉によって引き起こした変容を意味と定義するべきである
というのが私の結論である。
つまり、言葉(ないしそれ相当の記号列、情報)はそれを観測した聞き手に「消費」され、消費後の変容こそが意味である。

もっと具体的に述べよう。
「8月はスイカが美味しい」という言葉(文字列、情報)の意味は、「8月はスイカが美味しい」という文字列(正確には、文字相当のパターンの列だがこれはあまり重要ではない)自体に宿るわけではなく、それをみた ""あなた"" が、「スイカ食べたいなぁ」とか、「最近暑いなあ」とか、「スイカは別に好きじゃないなぁ」といった感情を引き起こす。あるいは、実際にスイカを買いに行くかもしれない。この変容こそが意味であり、文字列自体に宿るものではないというのが私の結論である。
つまり、意味は一意ではなく言葉の認識主体の数だけある。

いやいや、8月という時期があって、スイカというのは食べ物で...という一意な「国語的な正しい意味」、あるいは 1+1=2 等は「数学的な正しい意味」があるでしょ?という反論がもちろんあると思う。それについては後で詳細を議論するが、ここでは、それらの正しいとされる意味は、消費した後の変容の一部を一定程度統一するための規範を指す言葉であり、言葉の意味 の定義は相変わらず、認識主体側の変容一般を指すべき という私の結論に変わりはない。
一意的な普遍(あるいは真理的)の(正しい)意味があると考えてしまうのは、人間の言語能力と認識能力の高さゆえ、またそれに日常が支配されてるゆえの過剰なコミットだということを後述する。

このことから、言葉の意味を「理解する」という表現自体が不適切な表現である。変容は言葉を受ければ起きるからであり、変容に正しさも誤りもないからである。(「法定速度は60km/h」は真偽がつく命題と言えるが、「60km/h」は命題ではない。)

ただし、ある変容を規範として、それとだいたい同じ変容を正しいと暫定的に捉えることはできる(これが、ある種の規範的正しさである)。

よって、AIが言葉の意味を理解しているか?は不適切な問いであり、AIが言葉を受けて何か変容しているか?という命題ならそれは正しく、その変容が人間と大部分で同じか?という命題なら正しくないという結論は導ける。これこそが適切な問い立てと回答である。

また、インクの染みや、ハードディスク上の(文字列に復元されうる)物理状態はもちろん存在している。それらはパターンとして人に認識されれば言葉としての意味となるが、単独で意味としてそこに存在していることはない。というより、意味は消費者に起こる変容なので、存在とは異なる(車は存在するが、時速60kmは存在ではなく現象である)。

記号は消費者があらわれれば意味となりうる という認識が適切である。

以上の分析が、私なりの納得である。

では、結論に至るべきまでの議論を述べたい。

議論

前提

議論では以下を仮定する。あるいは、仮定というより大原則とするというべきかもしれない。
結論もこの仮定のもと出したものであり、特に1番目は本稿の中心になるものなのでしっかり抑えてほしい。

  • 1. ハードな二元論的世界を仮定せず、全ては一つのキャンバス上の議論とする
    • 1つのキャンバスを物理世界と本稿では呼ぶが、いわゆるステレオタイプ唯物論者では私はない
    • つまり我々は、「普遍(や真理)の世界」を覗くことも、そこにコミットすることもできない
    • 普遍世界(や真理世界)みたいなのを仮定しない理由はシンプルで、観測できていないものを仮定していくことを許可すると議論が収集つかなくなるからである
    • 繰り返しになるがこれは本稿の大大大原則である
  • 2. 問題や神秘性をより素朴な問題や神秘性に還元することで、議論の範囲を限定することは理想的であり、ある種の解決である
    • 本稿では主に、意味の問題を神経や諸科学の神秘さに還元している

辞書から考える

そもそも、言葉の意味とは何だろうか?

[goo辞書](https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%84%8F%E5%91%B3/)によると、言葉の意味とは以下の通りである
> 言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと。
上記の定義であれば、言葉の意味とは、「言葉自身」に紐づくものと考えられそうである。

また、ご存知の人も多いかもしれないが、言葉の意味についてはいろいろ哲学的な議論がされている。ここではそれらの紹介はしないが、私が見てきた範囲では基本的にはやはり「言葉自身」に意味が定義されていた。

日常での考察

哲学的な問いを考えるときに、日常的な問題に還元して考えることは悪くないことだと思う。
一旦、ここまでで述べた議論をクリアして、素朴に以下の2つの言葉の意味を考えたい。
先に述べると、以下の2つの例を通じて、我々は「意味」のある側面として「第二人者(言葉を受け取ったもの)の解釈やそこからつながる行動」が関わってくるということがわかる。 

それは「意味」がない(無意味)

「あの人は好きな人がもういるから、アピールしても意味がないよ(意味だよ)」 この言葉の意味を考えてみよう。
まず、これは明らかに、「アピールしても期待する効果がない」という趣旨であり、ここでの「意味がない」は、「あなたの期待する効果がその行為で得られない(からやめるべき)」という意味である。
本当に意味が空っぽであるということが主張されているわけではないということは抑えておきたい。 

正しい理解

「「善処します」を努力しますと捉えるのは正しい理解ではないよAくん。善処しますはできませんという意味だよ。」
この言葉の意味を考えてみよう。
ここでは、2つの意味がでている。

「努力します」と捉えた第二人者Aの解釈、
「できません」と捉えた第二人者Bの解釈、「できません」という意味で(おそらく)述べた第一人者の意図である。

つまり、ここでいう正しい理解とは、「第一人者(発話者)」の意図と一致するものを指すと考えられる。

 

意味の再定義

「日常での考察」で述べたことに関して、以下のように「意味」概念を(上での議論からわかったことをやや一般化して)定義したい(辞書と異なる定義なので、再定義とした)。

言葉の意味とは、その言葉を受け取った聞き手(第二人者)に訪れる変容のこと

ここで聞き手の「変容」とは、「解釈」を更に一般化したもで、その言葉を聴いたことで脳内の神経でおこる変化であり、その変化から伴う行動まで含める。神経の変化という表現には、まだ厳密には解明されいないと言われている、感覚や感情の変化も含める(クオリアという表現でもよかったが、クオリアの存在をみなが認めてるわけでもないようなのでその表現は避けた)。

つまり、「青い海を観に行こう!」という言葉に対する変容としては、「青い海」のイメージ、過去の経験による青い海を見たときの素晴らしい感情、
青い海に行くという計画に対する理論的な判断、などを含む。

そして、他に定義したいものが、「正しい理解」と「教科書的正しい理解」である。

言葉の)正しい理解とは、その言葉を生成した第一人者が聞き手(第二人者)に意図(期待)する変容」のこと
言葉の)教科書的正しい理解とは、規範的な変容」のこと

例えば、行きつけの店における「いつものやつ」の正しい理解は、「中華そば大盛り」などである。
一方で、「いつものやつ」の教科書的正しい理解は存在しないが、「善処します」の教科書的正しい理解は「できません」であり、これは上の例では、正しい理解 = 教科書的正しい理解 が成り立っている例でもある。

このような定義をする意義であるが、このような定義をすることで、ある種の分析が(明確になって)便利、以上の意義はない。意味 = 正しい理解 と定義してもよいが、この3つを分けて考えると分析が明確になるため、分けている。
( 少しだけ付け加えるとすれば、意味を受け手に置くことで、
「戦争」という言葉の持つ「痛み」、「虹」や「空」や「海」などの言葉がもつ「美しさ、喜び」などの言語的には表現しづらい感情も意味の範疇になり、主体が人間だけではなく犬や動物、感情がない機械に対しても「意味」が生じうる事を可能にした。 )


正しい理解に話者の意図は必要なのか? 普遍的言及に関する議論

意味、正しい理解は、話者、聞き手が存在する場合には存在しうる。
しかし、話者に必ずしも意図が存在しうるのか?
例えば、「事実」に対する言及、「数学の定理」に対する言及は、話者の意図とは別に、また規範という社会的なものとも別に、「普遍的な意味」というものがあるのではないか?
そして、この普遍的な意味こそ正しい意味とするべきではないのか?
といったことに対して議論をする。

 

事実の普遍性

我々はともすれば、普遍的言及をしたがる。しかし、本稿の大原則を思い出してほしい。普遍を我々はしらないし、普遍に我々はコミットできない。
ビートルズが4人組であるというのは、ほぼ間違いないことではあるが、我々は普遍の事実というものにコミットできないのである。

経験したこと、目で見たことを日常的に事実というのは問題ない言及であろう。
しかし、その日常的な意味での事実に対する感覚を言葉の意味の議論に持ち込むのは禁物である。
我々ができるのは、高々自身が正しいと揺るぎない信念をもっているという言及である。

強盗現場の目撃者が、「犯人は黒い服の男だった」と述べる時、「自分の神経が間違いないとい感覚を持っている」ことから、ともすれば普遍的事実のように断定口調となっているのである。そのギャップを慎重に考慮すれば、この目撃者の発言の正しい理解は、
(聞き手が、)自分と同じ様に間違いないという変容を伴い、かつ、黒い服の班員を目撃した映像と自分の同じ変容を伴う ということである。
もし、犯人の仲間が別の目撃者になりすまし、「犯人は白い服の女だった」という嘘の言明をした場合、正しい理解は、「白い服の女だった」ということと、自分が目撃したということ以外は共通であり、ここで正しい理解に違いはない。
違いがあるとすれば、前者は発話者に事実に感じるという神経の状態がが伴っており、後者はそれを伴っていない(嘘をついているという状態をむしろ伴っている)ということである。

我々は普遍(真理)にコミットできない以上、事実は事実の神経状態を伴っている以上のことは、同一キャンバス上に描くことではできないのである。

数学、科学の普遍性

数学も「事実」と同じ用に、普遍的な言及に思える。定理は、普遍的な事実として主張され、
数学的事実は検証可能という点で、上の目撃者への言及よりもより普遍的な主張とも思える。
しかし、何度もいうが、われわれは普遍や真理にアクセスできない。
では、数学的な正しさはどのように考察するべきだろうか?

「1+1=2」という主張は、やはり、主張者の神経がこれを強く正しいと感じる状態にあることは否めないであろう。
しかし、数学にはもう一つ重用な営みがある、「証明」である。証明には重用な要素がある。公理やより推論規則という小さな前提条件から、より大きな帰結を導けるという性質だ。

また、もう一つ特筆する点があるとすれば、数学的な正しさは「再現可能」であり、
上の目撃者の例とは違い、紙とペンがあれば基本的に再現可能であるという特徴がある。

ただし、実はこの2つは数学だけではなく、物理や計算機科学なども同様の性質をある程度もつものであろう。

何度も何度もいうが、我々は普遍や真理ではない。
結局の所、最小性があろうと、再現性があろうと、我々が確認できるのはその再現性を我々の観測が補足できるというところまでである。
つまり、これらを普遍性とコミットしてしまうのは過剰であることと変わりない。
ただし、話者が求める変容の要求度の高さに対して、それをある種の検証能力がある聞き手が「正しい理解」が可能であるという特徴と、
「(計算などの)実験」を通して、聞き手が同じ結果を観測できるという特徴もある。
後者についての不思議さなどは、もはや「意味」ではなく、「個別科学の不思議さに還元できるし、そちらで議論するべきだろう。

観測された現象を普遍と捉えてしまう、これらはある種の我々の認知能力の高さからくるものだとも言えるだろう。しかし悲しいかな、全てわれわれの感覚(五感)から得られた情報に基づいて生成されているため、数学や物理的な普遍性があるとしても、それに関する言及は普遍性へのコミットとは別である。

(この議論に納得がいかない方は、次の章のロボットの議論読まれるとひょっとしたら納得いただけるかもしれない)


普遍的な言及についてもうちょっとだけ

ここまでの議論では、「普遍的な意味」を否定し続けてきた。
しかし、私は、「普遍的な認識一般の有意義性」を否定するつもりは毛頭ない。むしろ、人類のこれまでの進化はこの普遍性と認識してしまうある種の錯覚から生じたと思っている。

つまり、数学的主張もそうであるし、非現実のキャラクターを普遍の存在としてストーリーを作り上げられる想像力などは、普遍を自らのうちに作ってなければできない所業だろう。

ただし、自らのうちの普遍が、他人ともある程度共有できるというところまではよいが、
それが何かしらの絶対的な普遍であるとなると、オーバーコミットであるということを今回主張している。

 

共通の内部モデル上で普遍性が語れる可能性

あくまで物理世界のみを認めた上で、他人と認識的な普遍性(科学的事実や、空想のキャラクター)が共有できている場合、つまり、相手の変容が確信できる場においては、「普遍的な言葉」を(限定された意味で)語ることが可能になる。
世界に関する事実、ドラえもんの世界などの存在し得ないと思われる世界の事実に関する言及もある種可能となる。

なぜなら、普遍に対するコミットではなく、「お互いの中の普遍的に感じる機能」に関するコミットであるからだ

ロボットを例にするとわかりやすいかもしれない。
ロボット2台が同じ部屋にいる。このロボットはそれぞれ部屋に関する情報をセンサーなどを頼り集め、内部的に世界のモデルを構築している。
今、ロボットAが扉の近くに落とし穴があることをセンサーでみつけ、Bluetooth経由でロボットBにそのことを伝えた。
この時、ロボットAはロボットBに世界(部屋)の事実として罠の存在を伝え、Bもそれを事実として「内部の世界モデル」に罠の危険性を加筆した。
この例であっても、ロボットAの言葉(通信)の「意味」は、「ロボットBの変容」であることは変わらない。
ロボットAの言葉の「正しい理解」も同じ様に、ロボットBが(罠にかからないように)「変容することで、その変容は世界の内部モデル書き換え」であろう。しかし、ロボットAもロボットBも「世界の内部モデルがある」ため、ロボットAの言葉は、「世界の事実」としても見なせる。

これが普遍にコミットできない我々でも、共通の変容が想定されうるときには、「普遍を語れる」可能性がでてくるということである。

むしろ、一般的には、この「変容が共有できている状態を前提として」言葉の意味が議論されてきたようにも見える。例えば、「宵の明星と明けの明星」の意味に関する議論などは、まさしく世界の内部モデルが我々に共通してあるからできる科学の議論である。

この内部モデルが存在しうる、ある種アプリケーションレイヤーでの言葉の意味などについては、本稿ではとても扱いきれないのでここで終わるが、
少なくともロボットの例に出したようなモデルと我々人間も同じであることは考慮すべきである様に思う。

まとめ

以上見てきたとおり、人間には「普遍」に関して、よくも悪くもオーバーコミットをする性質がある。そのオーバーコミットは大変豊かな帰結をもたらすが、状況を分析するうえでは、そのオーバーコミットの特性を認識するとまた別の見え方が可能であり、「意味」などは特にそうである。

慎重に「意味」を分析すると、これまでの意味に関する哲学的な議論が、より問題を個別詳細化(あるいは哲学的問題から科学の問題への帰着)できる様にも思える。

AIが意味を理解しているか?という問いは、正しい理解に関する求める変容をどこに置くかで、例えば、神経のレベルまでの一致なら No であり、計算などの正しい答えを出す変容を理解とみなせればOKとする立場なら Yes  と答えることができる。
また、前者であればより深い議論は神経の科学の問題に還元できそうである。

既存の意味に関する議論はあまり触れられていなかったが、既存の意味に関する議論が、「共通の内部モデル」が前提された場面における考察であったということがわかったというのは個人的に有意義な結果であった。

おしまい。

 

本稿に目を通してくださった方、ありがとうございます!

 

追伸

なんとなくであるが、本稿を書き終えてみて、本稿の内容が結果的に戸田山和久先生の「哲学入門」の内容に似てしまった印象を今感じている。

個人的には、哲学入門においては、「意味」は湧いてくるものとはいえ、何か存在者的な雰囲気があった記憶がある(がうろ覚え。。。)ので、少なくともその点では違うとは思っている。そこからインスピレーションを得たわけではないが、暗黙的に無意識に影響を受けてしまっている可能性は避けられない。

ただし、一応本稿を書き始めた動機としては、「日常での考察」の章で述べた、「無意味」は本当に「無」意味なのか?という日常的な疑問と、「推論主義」と呼ばれる方々の意味に関する議論(難しいので、勝手な理解でいます)から、本稿での意味の定義に関するインスピレーションを得、そして、意味の定義を今回のように細かく定義すれば、上で書いた2つの問題も納得の行く表現ができなと気づいて、本稿をまとめたというものである。

他にも、「チューリングテスト」が何を言いたかったのか、「記号設置問題」、「(単語の意味の)分布仮説」等に関する考察もしており、それらの章も書くつもりであったが、力尽きてしまった。

もし、本稿に何かしらの反応があれば追記するかもしれない。